Concert演奏会

アンサンブル・クライスの演奏会活動記録です。

資料集 *随時追加してまいります

Mozart, Haydn楽譜表紙
ミヒャエル・ハイドン「主の晩餐の聖木曜日のレスポンソーリア」

7月6日のアンサンブル・クライス第25回定期演奏会のメインプログラムである

ミヒャエル・ハイドンの「主の晩餐の聖木曜日のレスポンソーリア MH276」全9曲の資料


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■ミヒャエル・ハイドン Johann Michael Haydn (1737-1806)   

「交響曲の父」フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの五歳年下の弟として生まれたミヒャエル・ハイドンは、兄のあとを追って、ウィーンの聖シュテファン教会の合唱児童となり、そこで楽器の演奏と作曲とを学びました。同合唱隊を退団後、しばらく苦しい生活を送りましたが、1757年グロスヴァルダイン司教座の楽長となり、ついで1762年に物故した楽長エーベルリーンの後任としてザルツブルク大司教の宮廷に「宮廷楽団員兼合奏長」として迎えられました(正式着任は1763)

この地でモーツァルト一家と交友関係を結びました。同僚のレオポルト・モーツァルトとの関係は必ずしもよくはなかったのですが、若きヴォルフガング・アマデウスとの親交は終生続き、おのおのの作風はそれぞれ互いに影響を与え合っています。事実、モーツァルトの語法の形成にあたって、ミヒャエルの作品の与えた影響は極めて大きい。一方、兄ヨーゼフとの兄弟愛も終生変わらず、ミヒャエルの存在は、この二人の大作曲家を取り結ぶうえで大きな役割を果たしました。

1777年からは聖三位一体教会のオルガニストを務め、1781年には、ウィーンに出奔(しゅっぽん)したモーツァルトの後任として、ザルツブルク大聖堂のオルガニストに就任しました。彼の弟子のなかには、カール・マリア・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ヴェーバー(Carl Maria Friedrich Ernst von Weber; 1786-1826)、アントン・ディアベリ(Anton. Diabelli; 1781-1858)等が数えられます。

ミヒャエル・ハイドンは、交響曲、室内楽曲、協奏曲、劇音楽等、数多くの作品を生み出しましたが、なかでも宗教音楽の分野において最も優れています。彼は、この分野では、四十曲にのぼるミサ曲をはじめ、多くの作品を残しています。そのなかには二曲のレクイエム(死者のためのミサ曲)が含まれています。

笠原 潔/最新名曲全集No.21 声楽曲Ⅰ(音楽之友社)




P7120880StuttgartSchlossplatz③コンコルディア・アレゴリエ(調和の寓意)の塔
パロック時代とその頂点に立つバッハ     吉田真康

バロック時代は事実上1600年に始まり、バッハの死の年、1750年に終わるとされています。この150年間に、世界の最高傑作に属する音楽作品がいくつも書かれ、そのうちの多くは現在もなお演奏会で取り上げられています。それらの中には、音楽的には単純ではあるものの劇的な激しさを備えている初期バロックのオペラから、J.S.バッハの超人間的な力にまで及ぶ、多彩な形式や様式が含まれています。

まず、バロックbaroqueという言葉は、いびつな形の真珠を意味するポルトガル語のbarrocoに由来していることは明らかであり、18世紀及び19世紀の批評家たちの間で、バロック美術に非難がましく適用されていました。彼らによれば、この美術は風変わりで、グロテスクで、装飾過多だったのです。このような評価は、現代ではもちろん覆されていますが。

プロテスタント主義とカトリック主義は、宗教音楽にかかわる見解や実践の源泉として、共に強力であり重要でした。バロック時代の宗教音楽は、ルネサンス時代ほど音楽創造の中心であったわけではないのですが、カトリックにおけるポリフォニーの伝統は衰えることなく続いており、とりわけローマではバロック精神の沁み込んだ教会作曲家たちが、ヴェネツィア様式の巨大で手の込んだ合唱作品を作曲しました。しかし同時に、宗教音楽における最も目立った改革は、シュッツ、ブクステフーデ、J.S.バッハといったドイツの作曲家の間で起こったのです。彼らはルター派教会のために、重要な合唱音楽やオルガン音楽を提供しました。

バロックの音楽様式は、いくつかの点でルネサンスのそれとは異なっています。一般的な特徴としては、

(1)ルネサンス時代に有力だった声楽形式(ミサ曲、モテト、シャンソン)に比較してずっと多様になった声楽形式(コンチェルト、オペラ、オラトリオ、カンタータ)

(2)ルネサンス時代の分厚いポリフォニー書法に代わる、より簡潔な書法。

(3)規則的で拍節的な拍子(2/43/4など)に支えられた、動的かつ全身的なリズムの動き。これはルネサンスの多くの合唱音楽にみられる、よりしなやかで非拍節的なリズムに取って代わるもの。

(4)音楽の全体的効果の中で、常に際立っている通奏低音。これはルネサンスのポリフォニーにおいて、低音が他声部に融和しているのと対照的。

(5)旋法組織に代わる、長・短音階の使用。

 

バロック時代の終わりと来たるべき重要な時代「古典主義時代(1750-1800)」の始まりとの間に、明確な境界線があるわけではもちろんなく、18世紀中葉、つまりJ.S.バッハの死(1750)の時期は、バロックの終焉を画するのですが、音楽上では多くの相反する傾向が現れた時期でもありました。

 

さて、16世紀が閉じようとする時期に、フィレンツェの「カメラータ」の名前で知られる、ルネサンスの人文主義者(詩人、音楽家、学者たち)のサークルが新しい表現方法を作り出しました。それは、単独で歌うという意味のギリシャ語モノディアmonodia”に由来するモノディmonodyの名で呼ばれることになります。その原理は要約すると次のようになります。

1. 音楽はテキストの言葉に従属する。

2. 手の込んだポリフォニーでは、テキストの感情を明確に表現できない。

3. 複雑なポリフォニーに代わって、声による1本の旋律と和弦的な伴奏が提唱される。

4. 声による旋律は、話し言葉になぞらえた朗唱様式によるべきである。つまり音楽のリズムは言葉のリズムを模倣すべきであり、旋律線は話す声の自然な抑揚と一致すべきである。

5. 歌手は豊かな表現と劇的な感情をもって、旋律を歌うべきである。

 

フィレンツェの人々は、独奏者のために和声的背景を与えることのできる楽器の伴奏を好んだので、リュート、チェンバロ、オルガンのような和音を作り出せる楽器が優先されることになりました。このような伴奏は、“バッソ・コンティヌオbasso continuo”、または通奏低音thorough bassと呼ばれました。この名称は、曲全体にわたって奏されることに由来します。さらに17世紀初めには、通奏低音はチェロやヴィオラ・ダ・ガンバを加えた形が標準となりました。鍵盤奏者は、低音旋律上で音を充填するか即興演奏することが要求され、通奏低音用のその他の楽器、つまりチェロやヴィオラ・ダ・ガンバは低音の旋律をなぞって奏しました。この通奏低音の理念は、バロック時代を通じて広く普及したのです。しかしバロック時代の末期(1740)に交響曲がコンチェルトに取って代わるようになると、通奏低音はしだいに演奏習慣から脱落していくことになります。

 

オルガン音楽の全盛時代は、16世紀のサン・マルコ大聖堂におけるヴェネツィア楽派の巨匠たち(メールロ、A.ガブリエリ、G.ガブリエリ)の時代から、バロック時代の頂点を極めたドイツの天才ヨハン・ゼバスティアン・バッハにまで及んでいます。バロック時代の主な特質(力強さ・劇的性格・無限性・装飾性・表現力の幅の広さ)は、オルガン音楽のなかに最も完全な形で現れているといってよいでしょう。ある意味でオルガンは、あらゆる楽器のうちで最も完全な楽器でした。

かくてオルガンは名手の楽器となり、華麗な技巧と深い感情表現のための手段となりました。この時代には、表現よりは技巧に重点が置かれることも時にはありましたが、代表的な作曲家、フレスコバルディ、ブクステフーデ、パッヘルベル、J.S.バッハの多くの作品には、その2つの側面、技巧と感情表現が美的にみごとに釣り合いを保っています。

なお、アンサンブル・クライス第25回定期演奏会〔202576()トッパンホール〕では、上記のブクステフーデDietrich Buxtehude (1637-1706) やパッヘルベルJohann Pachelbel (1653-1706) の作品を演奏する予定です。

 

 バロック時代の音楽は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハJoahann Sebastian Bachとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルGeorg Friedrich Händelの功績によってひとつの頂点に達します。この2人はともに1685年に生まれ、わずかの年を隔てて世を去っています(バッハは1750年、ヘンデルは1759年没)。外交的で国際人のヘンデルは、色彩的で贅(ぜい)をこらしたバロック・オペラやオラトリオに対する聴衆の要求に大いに刺激されました。これらは18世紀のイギリスで非常に盛んになったのです。それに対して、深い宗教的心情に動機づけられた学究肌で内向的なバッハは、自らの音楽を通じてルター派教会に仕えることに一生を捧げました。この2人の代表的人物の出現とともに、バロック初期からイタリアが握っていた音楽上の主導権は、ドイツとオーストリアの作曲家の長い系列に次第に奪われていくことになるのです。

 

さて、バッハほど多くのことを語られてきた作曲家は多分いないでしょう。さらに現代の音楽家や音楽愛好家も、バロック時代のあらゆる音楽のなかでも、彼の音楽に最大の称賛を与えているといっても過言ではありません。

純然たる量という点からだけみても、バッハの作品数はおびただしい数にのぼります。

千曲をゆうに越える作品は、オペラ以外のバロック時代の主要な形式すべてを網羅しています。そして作品の規模は、短いコラールから大掛かりで複雑な《ロ短調ミサ》にまで及んでいます。

 

10歳の誕生日を迎える前に両親を失ったゼバスティアンは、有名なパッヘルベルのもとで学んだオルガン奏者の長兄ヨハン・クリストフ・バッハに養育されることになりました。この兄の家庭の音楽的環境、また特に兄によるチェンバロとオルガンの手ほどきが、才能の芽生え始めたこの音楽家に格好の基盤を与えたのです。そしてついに彼は、18世紀の傑出したオルガン奏者と作曲家に成長するに至るのでした。

バッハは聖ミカエル学校を卒業するとすぐに、アルンシュタットで、教会のオルガン奏者兼合唱長という、初めての重要な音楽的地位を得て、1703年から1707年の間この地で生活しました。著名なオルガン奏者、ディートリヒ・ブクステフーデの演奏を聴くために、約200マイル離れたリューベックまで歩いて出かけたのもこの時期のことです。彼は休暇期間が過ぎてなおこの北ドイツの町に留まっていたため、戻ってきた時に教会の監督官の叱責を受けました。それから教会当局との一連のいざこざが始まりましたが、バッハは以後死ぬまで、こうした衝突に悩まされことになるのでした。

 

バッハは、1708年から1717年まで、ヴァイマルのヴィルヘルム・エルンスト公爵の宮廷に、宮廷礼拝堂のオルガン奏者兼宮廷楽師として雇われました。確固とした宗教的信念を持つヴィルヘルム公は、特にオルガン音楽に関心を持っていました。

その後、バッハはレオポルト公の支配するケーテン宮廷の楽長としての地位を選びます。

しかし、ケーテンで楽長職に就いていた間に、バッハには教会音楽の経験を積む機会は与えられませんでした。というのも熱心なカルヴァン派信者であるレオポルト公は、手の込んだ教会音楽にはほとんど興味を示さなかったからです。そのため1717年から1723年までの間、バッハは世俗音楽、なかでも室内楽曲と独奏曲の作曲に力を注ぎました。

さて、レオポルト公の妻が、音楽に対する夫の目にあまる熱中ぶりにすっかり腹を立てて、宮廷での音楽活動を全体的に控えるようにさせたために、バッハのケーテンにおける仕事は終わりを告げることになったのですが、皮肉なことに、バッハがライプツィヒでの新しい地位を得て間もなく、レオポルト公の妻は世を去りました。

 

バッハがライプツィヒの聖トーマス教会カントル(楽長)という立派な地位を得たのは38歳の時です。彼は、約3万の敬虔な新教徒(プロテスタント)の都市ライプツィヒの2つの大きなルター派教会(聖トーマス教会と聖ニコライ教会)の音楽を担当しました。

この仕事には、多くの時間と創作上のエネルギーが必要でした。この新任のカントルは、それぞれの教会に交互に、主要な日曜礼拝用の音楽を提供しました。午前7時から11時にわたる礼拝には、通常、カンタータ1曲、モテト1曲、コラール数曲、それにルター派のミサ・ブレヴィスのキリエとグローリアが必要でした。彼は、日曜日ごとにこうした音楽を用意する以外にも、クリスマス、復活祭といった特別行事のための合唱音楽や聖金曜日のための受難曲(3つの大作が作曲された)や葬送曲を作曲することを義務付けられたのです。また一時、バッハは聖トーマス教会学校の子供たちの面倒をみる手伝いをしたり、ラテン語や教理問答を教えたりもしました。

このように、ライプツィヒにおけるカントルの職務は、ケーテンでの比較的平穏な仕事に比べればはるかに煩雑でした。そしてライプツィヒでの彼の作品数は驚くほど多かったのです。バッハは室内楽ではなく、宗教音楽に専念しており、彼の優れた合唱作品の大部分は、この時期に書かれたものです。アンサンブル・クライス第24回定期演奏会で演奏したモテット《イエス、わが喜び》もそのひとつです。

 

ライプツィヒでの在職期間は、バッハ自身と教会当局との間に摩擦が絶えなかったので、緊張に満ちていました。さらに、新任のトーマス学校(聖トーマス教会付属学校)の校長はバッハに対し全く協力的ではなかったため、ついに彼は宗教合唱曲に完全に背を向けてしまいました。

バッハとヘンデルは、奇しくも共に眼をわずらい、同じ眼科医ジョン・テイラー卿の治療を受けましたが、2人とも手術に失敗、ともに晩年は盲目のうちに過ごしました。



〔参考文献〕

バロック音楽~豊かなる生のドラマ~ 磯山 雅

後期バロック音楽の演奏原理 ハンス・ペーター・シュミッツ 著/滝井敬子 訳

西洋音楽史~音楽様式の遺産~ ドナルド・H・ヴァン・エス 著/船山信子・寺田由美子・芦川紀子・佐野圭子 訳

バロック音楽の演奏習慣~バロック音楽の楽典~ ゴットホルト・フロッチャー 著/山田 貢 訳

合唱音楽~その歴史と作品~ アーサー・ジェイコブズ 編/平田 勝・松平陽子 共訳 


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メンデルスゾーン《詩篇第115篇 Op. 31「私たちではなく、主よ」Der 115. Psalm op.31 'Non nobis Domine'》

聖書と詩篇


 聖書はキリスト教の教典のことで、「旧約聖書」と「新約聖書」の二つの部分から出来ています。これは、ひとりの人が書いたのではなくて、何世紀にもわたって多くの人の手によって書かれた書物が編纂されて完成しました。

この「約」というのは、「契約」という意味で、創造主が人と結んだ契約ということです。「旧約」は、「旧(ふる)い契約」と言う意味で、「新約」が「新しい契約」という意味です。


◆旧約聖書とは

創造主が預言者に与えたメッセージを集めたもの。預言者とは創造主のメッセージを霊感で受けて預かる人たちのことで、「未来を予言する」の「予言」ではありません。

イエスが生まれる前のユダヤ人のことが書かれていて、もともとユダヤ教の教典でした。ですから旧約聖書はヘブル語(ヘブライ語)で書かれていました。しかし、のちに興ったキリスト教団が、「イエスについて預言したもの」だからということで、キリスト教の教典に収録しました。

旧約聖書の契約とは、律法(モーセの十戒を代表とする創造主の命令のこと)を守って生きれば、物質的な祝福を与えるという約束のこと。


 

◆新約聖書とは

イエスの伝記や、イエスの教えを伝道するために書かれた手紙などを集めて編集したもの。イエスの死後に弟子たちによって書かれました。こちらはギリシャ語で書かれています。


「新しい契約」が約束しているのは、イエスの言葉を心に受け入れれば、霊的・物質的両面での祝福が与えられるということです。


◆「詩篇」は旧約聖書の中の文書で、ユダヤ人によって収められた150篇の賛美、祈り、感謝、悔い改め、また神に対する信頼と愛情を表す詩によって構成されています。これらの美しい詩には、神に選ばれた民が、全知全能であられる創造主のもとでどのように成長し、学び、礼拝していたのかが巧みに描写されています。

詩篇が世界中で愛されている理由の一つは、その詩の言葉が神の言葉でありながら、限りなく人間の視点で表現されているという点にあるでしょう。

実際に詩篇を読んでみると、歌集というよりも、著者たちの信仰生活を綴った日記のようです。そこには神と共に歩む人が体験するさまざまな感情が、生々しく書かれています。喜びや感謝の心だけではなく、憤りや恐怖、後悔や失望した心によって執筆された詩篇も数多くあります。そして、さまざまな状況の中でどのようにして神に信頼し、畏れる心を持ち、主に希望を持つことができるのかが書かれているのです。


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モーツァルト『Der Messias メサイア』KV572 《序言》

Wolfgang Amadeus Mozart「Der Messias, KV572」(Barenreiter BA4529aのVorwort(序言)



モーツァルトによるヘンデル作品の編曲は、特に興味深いものである。これらの曲はヘンデルの作品中もっとも完成度の高いものとされ、その編曲はモーツァルトの創作活動における最後の時期にあたるからである。


モーツァルトがヘンデルのオラトリオを編曲したのは、すべてゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵の依頼があったからである。モーツァルトはすでに子どもの頃に、ウィーンでヴァン・スヴィーテンと知り合っている。ウィーンに居を移してから、モーツァルトはたびたび日曜音楽会(マチネ)に通い、ヴァン・スヴィーテンの豊富な蔵書、なかでもバッハとヘンデルの作品から、自らの芸術のために有効な刺激を受けとった。


1780年代のはじめ、ヴァン・スヴィーテンとウィーンの貴族仲間が集まって、音楽愛好会を作った。個人宅で招待客のために開かれるその集いで、毎年 ― 1787年以降は好んでモーツァルトの指揮で ― 四旬節やクリスマスの時期にハッセ、C. Ph. E. バッハ、そしてとりわけヘンデルのオラトリオが演奏された。モーツァルトによる編曲も、これらの演奏会のために作られたものだった。1788年11月、モーツァルトはヘンデルの「アシスとガラテア」を編曲した。メサイアの編曲は1789年2月から3月初めに行われた。「聖ツェツィーリアの讃歌」および「アレクサンダーの饗宴」の編曲は、1790年7月であった。


メサイア編曲の初演は、1789年3月6日、ヨハン・エステルハージ伯爵の家で行われた。その後もスヴィーテン男爵の周辺で ― 1789年4月7日にはふたたびエステルハージ伯爵家、1795年4月5日にはヨハン・ヴェンツェル・パール侯爵家、1799年12月23日、24日にはシュヴァルツェンベルク侯爵の冬の離宮で ― 演奏されたことが、カール・ツィンツェンドルフ伯爵の日記から分かっている。


バロック音楽では、オラトリオは ― この点、オペラと似ているが ― 演奏のために編曲されるのが慣例だった。モーツァルトの編曲も、この伝統にしたがっている。まず独唱部分が変更されねばならなかった。すなわち、楽章ごと移調する、短縮する、新しい楽章を補うなどである。楽器編成はオーケストラの質に合わせて決められた。音楽的な規則にある程度のっとっていれば、指揮者は自由にいずれかの声部を別の楽器で補強してよかった。したがって、ヘンデルのオラトリオを演奏せよとのヴァン・スヴィーテンの依頼には、したがって、この作品を適切に編曲せよとの要請も含まれていたことになる。創造(作曲)と再現(演奏)の能力は当時、別々の音楽家の表現形態とは見なされていなかった。むしろ芸術家は古くからの習わしにしたがって、作曲家としても、演奏家としても同じくらいすぐれていなければならなかった。


ヘンデル作品の合唱部分の編曲には、バロック期のインストゥルメンテーションの特徴が見られる。モーツァルトは、当時の言い方によれば、「ハーモニーに乗せ」ている。ホルンとトランペットの豊かな音に木管楽器が加わり、これらがたいていユニゾンで合唱の上声部に随伴する。これはバロックの「合唱斉唱」(Chori pro cappella)、すなわちリピエニストも共に歌う、全員斉唱の編成を思い起こさせる。オルガンの響きに匹敵する効果を得るために、こうした斉唱部分はユニゾンで補強するのが通例だった。この伝統から、モーツァルトによるメサイア編曲において、トロンボーン・パートが斉唱のアルト、テノール、バスにつねに付き従っていることも説明しうる。


モーツァルトは演奏上の都合を考慮して、ヘンデルのメサイアの総譜を一部省略する気になったのかもしれない。削られたのは、合唱「永遠の息子をほめたたえよ」、アリア「汝は高みにのぼりて」、およびアリア「ラッパは高らかにひびく」の途中部分である。アリア「神われらの味方なれば」をモーツァルトはレチタティーヴォに変えている。同時代の他の作曲家の編曲とくらべると、この程度の短縮は取るに足りないものである。モーツァルトが行ったこれらのわずかな省略のおかげで、曲全体が引き締まり、密度の濃いものになっているにもかかわらず、初版が出た際には猛烈な批判を浴びた。しかしながら、モーツァルトの編曲は特定の演奏の事情に合わせてなされたものであり、もともと印刷用ではなかったことを忘れてはならない。それはさておき、今日の視点からすると、まさしくこうした側面こそ、時代の変化の中で演奏の実際を示すものとして興味深い。


しかしモーツァルトは、実際の演奏でとうに「即興で」許されていたものをただ単に書き留めたり、または省略したりしたわけではない。フルート、クラリネット、オーボエはアリアの中で、全体の雰囲気の解釈者として登場する。ファゴットはしばしば本来の通奏低音の機能から解放されている。ヴァイオリンには新たなオブリガートのパートが与えられている。(第3部36番二重唱「おお、死よ」)。モーツァルトはとくアリアの音楽の流れを保とうと腐心している。バロック期の慣習として、ヘンデルの時代には、アリアのカデンツでは、独唱歌手が即興で技巧を披露するのをさまたげないよう、楽器は沈黙しなければならなかった。モーツァルトはこの点を変更した。伴奏パートを補い、カデンツに楽器を盛り込んでいった。(たとえば、第2部19番のアリア「なにゆえに争い」T.67等)


この時代の美学的要求は、自然の模倣ということである。聖書の言葉の選び方と、ヘンデルの曲の構想について、後の時代の私たちが説明をとってつけることは慎むべきだが、いくつかの兆しはある。10年後にハイドンが「天地創造」と「四季」を作曲した際と同じように、ヴァン・スヴィーテンがモーツァルトに、歌詞解釈のための方向性をあたえた可能性もある。


演奏の伝統と新たな時代の趣味、因習と流行が、モーツァルトの編曲を決定づけている。しかし、その完全な全体像をつかむには、モーツァルトがヘンデル作品の本来の音形(Klanggestalt)を変えるにいたった、いくつかの外的な要因をも考慮に入れなければなるまい。たとえば、トランペット・パートの変更がそうである。社会的な階層秩序の崩壊は、すでに特権的な管楽器奏者のツンフトの没落をもたらしていた。それがおそらく、クラリーノ(高音トランペット)という管楽器の演奏技巧が忘れ去られ、ヘンデルのトランペット・パートがモーツァルトの時代には演奏不可能とされた原因である。


調和のとれた古典的オーケストラに組み込まれたトランペットは、もはやかつてのように現世での地位や神の全能を表すシンボルとしての、輝かしい楽器ではなくなった。トランペットにあたえられた役割はいまや、オーケストラのひびきをハーモニー的、リズム的に支えること、しかも主として自然音(Naturton)の三和音でであった。バロック期の昔ながらのクラリーノの音色を保つために、モーツァルトは合唱部分ではヘンデル作品におけるトランペット・パートをおさえたり、時には軽やかな木管楽器で代用したりしなければならなかった。アリア「ラッパは高らかにひびく」の独奏パートを、モーツァルトは二度書き直し、最終的にホルンに決めた。当時、ホルンという楽器の演奏技巧の水準は、トランペットとは対照的に、かなり高いものだった。


ヘンデル作品中のオルガン・パートをそのまま残すことができなかったのも、外的な要因によるものだ。モーツァルトの編曲は、個人的な演奏会のためになされたものだったが、ウィーンの貴族の館にはふつうオルガンはなかったからである。


モーツァルトの時代には、チェンバロは独奏楽器であった。しかし、ここではチェンバロはレチタティーヴォの伴奏と、ヘンデルの通奏低音が編曲の中に取り入れられたいくつかの箇所でのみ使われたようである。


バーデン・バーデン、1999年7月


アンドレーアス・ホルシュナイダー 

(翻訳 細井直子)


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クリスマス・オラトリオ 《序言》

バッハのクリスマス・オラトリオがわれわれの音楽界において高い評価を得ている理由、トーマス教会カントールである彼のクリスマス・カンタータの中でも、この作品が特別な位置を占める理由は、主としてその内容がクリスマスの出来事そのものにしぼられていることによる。作品の歌詞の柱は、イエスの誕生、天使によるお告げ、羊飼いたちの礼拝、命名、そして東方三博士についての聖書の叙述である。バッハは個々の祝日のために定められた福音書の章句におおよそしたがっているが、物語の筋の一貫性を保つべきところでは、しばしば教会の規定から外れている。その結果、このクリスマス・オラトリオの六つの部分は、クリスマス期間内の6祝日に分けて演奏されるものであるにもかかわらず、内容的に一つの統一体を構成している。


1729年以降、とくに1733年から1734年にかけての時期、バッハの作曲活動の重点は世俗音楽の分野におかれていた。ライプツィヒ時代の初期が教会カンタータの基礎を築くことにあてられ、その後彼は必要に応じてそこに立ち返ることができたとすれば、1729年以降はテレマンが創設した学生楽団コレギウム・ムジクムの忠実な弟子たちとともに、教会の外でもみごとな編成で演奏を行なうことができた。とくに1733年のアウグストⅢ世の王位継承後、バッハは自らの芸術を示し、また先に「ミサ曲」とともに提出した宮廷作曲家の称号を求める嘆願書の正当性をアピールするために、多数のすぐれた表敬カンタータをザクセン選定候の一族のために演奏している。しかしながら、こうした経緯から、彼の宗教曲と世俗曲との間に矛盾や葛藤を読み取ろうとするのははなはだ見当違いである。それをもっとも明らかに示すのは、これらの表敬カンタータのうち最上の作品が、1734年に成立したこのクリスマス・オラトリオの中に取り入れられていることである。バッハが「われら心を配り、見守らん」(“Last uns sorgen, last uns wachen”)<「岐路に立つヘラクレス」(“Herkules auf dem Scheidewege”)、BWV213>と「鳴れよ太鼓、響けよトランペット」(“Tonet ihr Pauken, erschallet, Trompeten”)の二つの世俗カンタータを、ほぼそのままの形であえてクリスマス・オラトリオの中に取り入れたということは、彼は既に作曲の時点で、一日の生命しかない祝い歌の中から出来のいい作品を救いあげ、教会暦との関係で毎年使われる作品にすることを念頭においていたとも考えられる。


1734年頃、バッハは教会暦の主要な祝祭のために、カンタータのように日曜礼拝の際に演奏するオラトリオを書こうと計画する。現存するのは、クリスマス・オラトリオ、昇天祭オラトリオ、および世俗カンタータの改作である点で特殊な位置を占める復活祭オラトリオである。ことによると聖霊降臨祭カンタータも計画されていたのかもしれない。あるいは実際に作曲されたのだが、後に紛失してしまった可能性もある。


クリスマス・オラトリオの歌詞の作者は不明である。世俗歌を書き換える手なれたやり方は(それがバッハとの綿密な相談の下になされたことは疑いない)ピカンダーを思わせるが、印刷された彼の著作の中にはこの歌詞は見られない。


さまざまな楽章に、当初の構想が作曲の際に変更されたことをうかがわせる箇所が見られる。たとえば第5部第43曲「神よ、御身の栄光を歌い讃えん」(“Ehre sei dir, Gott, gesungen”)の詩節形式は、この詩が本来はカンタータBWV213の中の合唱「民の喜び、汝の喜び」(“Lust der Volker, Lust der Deinen”)に付けられるはずであったことを示している。しかしバッハはこの詩に別の、おそらく新たに作曲した音楽を付けるほうを選んだ。同様のことは第3部第31曲アルトのアリア「わが心にとどめん、この幸いなる奇跡を」(“Schliese, mein Herze, dies selig Wunder”)の場合にも起こったらしく、勘違いでないとすれば、その音楽にはカンタータBWV215の中のアリア「熱意に燃え上がる武器を持ち」(“Durch die vom Eifer entflammeten Waffen”)のものを用いるはずであった。しかしここでもバッハは新しい曲を作り、代わりにカンタータBWV215の音楽は、クリスマス・オラトリオの第5部第47曲のバスのアリア「わが暗き心にも光を与えたまえ」(“Erleucht auch meine finstre Sinnen”)の下敷きとした。ようやく近年になって、福音史家のレチタティーヴォと第59曲コラール「われは御身の飼い葉おけの傍らに立ち」(“Ich steh an deiner Krippen hier”)を除くクリスマス・オラトリオ第6部全体が、バッハの失われた教会カンタータを転用したものであることが証明された。この転用が、今日残されていない本来の歌詞の全面的ないし大幅な書き換えと同時になされたことは疑いない。こうした本来の作曲構想の変更と、それとともに歌詞にも加えられたであろう数々の変更ゆえに、ピカンダーはこの歌詞を自分の名前で発表することを控えたのかもしれない


われわれはこの作品を前にして、さまざまな様式の、ある特定の目的のために作られた古い作品から、内的調和に満ちた新しい音楽を創造するバッハの能力にまたもや驚嘆せざるをえない。バッハの自筆譜(復刻版も出されている)からは、清書と草案とを見比べることで、作曲の過程が手にとるようにわかる。しかしながら、もとの作品を新しい環境になじませる過程は、決してただ表面的に曲の調や編成、各楽章の雰囲気のみを変えることではない。たとえば「幼子のゆりかご」(“Kindelwiegen”)はキリスト教の夕べの祈りの中で何世紀にもわたって受け継がれてきた習慣だが、カンタータBWV213で「快楽」の寓意が若きヘラクレスを魅惑しようとして歌うアリア「眠れ、わが最愛なる人よ、安らかに憩えよ」(“Schliese, mein Liebster, und pflege der Ruh”)が、「眠れ、わが最愛なる人よ、憩いを享受せよ」(“Schliese, mein Liebster, und geniese der Ruh”)という歌詞となってクリスマス・オラトリオの中(第2部第19曲)に取り入れられているのを聞くと、あたかもこのアリアがここでようやくしかるべき場所を得たような印象を受ける。同様のことは、トランペットの象徴にもあてはまる。トランペットはバッハの少し前の時代まで王の楽器とされ、市民生活にはまったく縁遠い存在だった。アリア「王冠と栄光をいただけるご婦人に捧ぐ」(“Kron und Preis gekronter Damen”)では、トランペットはポーランドの女王を称える威厳に満ちたシンボルとして高らかに鳴り響く。それに対して、クリスマス・オラトリオ第1部第8曲バスアリア「大いなる神よ、おお、強大なる王」(“Groser Herr, o starker Konig”)という歌詞のところで、貧しさの中で生まれた幼子イエスのいまだ目に見えざる王国を表わすべきときには、トランペットは神学的な響きを帯びる。クリスマス・オラトリオ第2部で、フルートとオーボエが牧人を表わしていることは誰の目にも明らかだ。結局こうしたことからわかるのは、バッハが世俗曲を型どおりクリスマス・オラトリオに移し変えるだけでは満足しなかったということである。


アルフレート・デュア Alfred Durr

(翻訳 細井直子)



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